3月3日 エミレーツ航空、EK319 成田空港22:00発の便に乗り、ついに、クマルさんは出発した。イタリア大使館へ行って、無事にシェンゲンvisaを取得したからである。クマルさんから、『visaが無事に取れました。』との電話をもらった時、心の底から嬉しかった。これで、彼はついに、イタリアとフランスへの旅が可能になった。
人前で話したり、妙にテンションを上げなくてはいけなかったり、常に愛想良くしなければならないと感じ、何だかピエロみたいで正直、接客は好きではなかった。入社したばかりの頃は、カウンターでお客様と話したり、また自分の話している姿や声を、他のスタッフに聞かれたくなくて、経験が浅く知識がなく自信が持てなくて、いつもボソボソと消極的で、接客業は、心底向いてないと感じていた、営業成績の数字もそこそこ止まりだったし。楽しそうに堂々と伸び伸びと自然に接客をする同僚を横目で、接客は天性のものなんだなぁと感じながら。そんな私だけれど、何とか続けられたのは、旅行が好きなこと以外にこんな喜びがあったからだとつくづく思う。もちろん、一緒に働いた人達の支えも大きい。
私が、精神誠意を尽くし対応したお客様は、私を成長させてくれそして仕事の喜びとやり甲斐を与えてくれた。営業と接客の楽しさも、後に得ることができた。ピエロみたいだと思っていたぎこちない接客も、いつの間にか自然と笑顔でハキハキと接客するようになっていた。
クマルさんの旅の出発までの物語だが、実はvisaが取れて無事に出発というものではなかった。クマルさんは、visaが取れたという知らせの電話口で来店する旨を私に告げていた。
『visaも無事に取得できたので、明日、友達と来店します。ホテルやオプショナルツアーなどの最終旅程を相談したいので。海外旅行保険にも入りたいです。今回が最後の来店になると思うので、みんなで行きます。』と嬉しそうに語っていた。
この、来店が最後の波乱を巻き起こすことになろうとは私は思ってもいなかった。
翌日の夕刻、比較的空いている時間に彼らは来店した、クマルさん含め6人の男子学生。クマルさんを除いては、全員日本人であり、29歳のクマルさんより皆若かった。保険に入る申し込み用紙に記入したり、クマルさんが航空券や日程の説明を嬉々としながら他のメンバーに説明する姿を私は、なんだか誇らしく思い、和やかな時間を感じていた。
『モンサンミッシェルは絶対行きたいなぁ』とか、『ベルサイユ宮殿は行かなくてよくね?』みたいな会話がちらほら聞こえてきていた。私は、それを横で聞きながら、モンサンミッシェルの行き方やオプショナルツアーを進めるべく、次にくるであろう質問に備え準備していた。
その時。その空気を一瞬で壊す信じられない言葉が私の耳に聞こえた。
『てか。イタリア行かなくてもよくね?パリだけでいいじゃん。』1人がつぶやく。『だね。いいや別に。パリで。』とまた別の一人が言う。
(まじで!?ありえない!何を言っているんだい?君達は?!!はっ???)心の中で私は叫びまくっていた。きっと、クマルさんも同じだったに違いない。
私が、心の中で絶叫している間に、グループの形勢は、フランス一カ国の旅へ向かいつつあった。そうです。クマルさんは、インド人。イタリア大使館でシェンゲンvisaを取得しました。そのため、彼だけは何としてでも、イタリアに入国する必要があるのです。世界最強のパスポートの権利を生まれながらにして持っている日本人には、感覚があまりないvisaと入国問題。インド人のクマルさんにとっては、大問題であり死活問題です。
しかし、クマルさん。そのことは、決して口にしません。visaの問題は、あくまでも自分の問題だと考えているようでした。そのことで、皆んなに無理強いはしたくないと思っていたのかもしれません。『イタリアも行きたい。みんな行こうよ、。。。。』と説得を試みています。日本人の学生も、その事情を知らないのでイタリアとフランスの周遊に難色を示していました。私は、誠意一杯、クマルさんの援護射撃をし、イタリアの素晴らしさを熱弁することに徹しました。しかし、なかなか状況は好転しませんでした。
30分くらいたった頃。1人の学生が、『俺、イタリアも行こうかな。』と小さな声で呟きました。
その瞬間。翼が。クマルさんの背中に翼がやっと備わりました。
私も、クマルさんも大喜びで、呟いた彼の方を見ました。結局、6人中4人はパリのみの滞在、クマルさんともう1人がイタリアとパリ。途中2人が別行動をし、パリで6人合流するという旅程に落ち着きました。
最後の来店と言いいつつ、その後クマルさんは1人で2度ほど来店しました。
1度目は、出発前に。『お土産は何がいいですか?』と私に尋ねるために。私はその時、『いりませんよ、気を使わないで、旅行を楽しんできて下さい。』と言いましたが、彼は、『日本人はすぐ遠慮しますよね。わかります。でもお願いです。教えて下さい、』と。
『あ。Baci バッチのチョコレート。』
私は、リクエストしました。バッチのチョコレートは、私が初めての海外旅行で行ったイタリアのフィレンツェのホテルで、部屋の掃除が終わる度に、ベッドの枕元に一粒置いてあった思い出の美味しいチョコレートでした。
彼は、それを手帳にメモして、『行ってきます。』と笑顔で店を後にしました。
もちろん、2度目の来店は、帰国後です。たくさんのバッチのチョコレートを手に持って。
Smiycle